中原 繁

コロンビアレコード時代のプロモーション担当で、自分と同じ年で生きていたら38歳。

イエローモンキーがデビューした時から会社にいたが、大学を卒業したてでまだアルバイトだった。
2ndアルバムのエクスペリエンスムービーぐらいから、正式に社員になりイエローモンキー専属になった。
本来、THE CLASHやブルーハーツとかパンクが好きで、酔うとスッポンポンになり、よくリンダリンダを
熱唱していた。
当時のイエローモンキーは、あのとおりナヨナヨしていたので、彼の中では(?)だっただろう。
最初はお互い探り合いながらの関係だったが、日に日に意気投合していった。取材現場に彼が来ると
みんなとてもうれしそうだった。
92年から2年5ヶ月続いたFMの深夜放送も欠かさず来てくれて(酔っぱらってる時も多々あったが)
場を盛り上げてくれたので、本来苦手だったはずのラジオで喋ることもどんどん楽しくなった。
3時で生放送が終わり、そのあと朝の7時ごろまで飲んで、『今度はこんなことやろうぜ』と
どんなことか忘れるほどいつもベロベロだったが、少しづつ夢が近づいてきていることを、
店を出て朝を迎えている銀座の裏通りで、感じていた。

ある日自分が抱えている不条理を、全部紙に書いてそれに曲を乗せた7分近いバラードを作った。
社会的なこと、プライベートなこと等、思うことを遠慮なく全部書いた。
今ならそのまま世に出せるが、当時はそういうわけにはいかなかった。少しづつ詩を削っていき、
5分ちょっとの曲になった。録音したその曲を聴いて彼が言った。
『これは代表曲になるよ。会社の上の人間がなんて言おうが、オレが絶対売ってやるよ!』と。
『JAM』という自分の子供が正式に認知されたようで、とてもうれしかった。

『JAM』でミュージックステーション出演の話が来た。しかし歌番組に出ると、
曲を3分台にされてしまうので、『絶対に出ない』と、プロモーターである彼に
食ってかかった。困らせたくなかったが、それだけは譲れなかった。
しかし後日、彼の執念と人柄だと思うのだが、異例の"5分"という枠を取ってきて
くれたのだ。『歌詞がある部分は全部歌えるよ!』と。
その瞬間からイエローモンキーは色々なものを次々とつかみ始めた、、。

野生の証明というツアーの最終日、LIVEが終わったあと、楽屋に来た彼とすかさず
握手をして抱き合った。『おつかれ、ありがとう、、』と言って、2人で泣いた。
既にレコード会社移籍が決まっていた。

コロンビアを移籍する時、『うちの事務所に来ないか?』と誘った。
しばらく考える時間をくれと言った彼の数日後の答えはNOだった。
『親であるレコード会社を裏切れない。新しいバンドを見つけて絶対成功させる。
見つけたらオレの勝ち、見つかんなかったらオレの負けだよ』と、
半分冗談、半分殺気ある表情で言った。今思えば自分もそこからシフトが変わった。
その後、彼はミッシェルガンエレファントを、プロモーター的にも大ヒットさせた。
彼は勝ったんだ。

2000年の3月18日イエローモンキーのメンバーに事務所に集まってもらい、
自分は『もうやめたい』と告げたあの日。
話をし終わり、しばらく沈黙が続くと事務所の社長宛に1本の電話が鳴った。
中原が出張先の宮崎で死んだという知らせだった。レコーディングエンジニアの
山口州治さんからだった。
過労とストレスと暴飲暴食が原因による大動脈瘤破裂。宮崎の野口記念館で
アマチュアバンドのコンテストが行われていて、ゲストが中原の担当する
新人アーティストだった。
彼は会場内のトイレで倒れている所をスタッフに発見された。
その時、ステージ上の音を流すためにトイレに設置されているスピーカーから、
奇しくもアマチュアバンドがコピーしたJAMが流れていたとその後スタッフから聞いた。
嘘のようなタイミングだが、本当の話だそうだ。

その訃報を聞いて事務所でのミーティングは『とりあえず活動休止ということにして、
少し休もう。』ということになり、終わった。
彼がイエローモンキーの解散をその時止めたのかもしれない。

でも中原、ごめんな。

中原、最近取材なんかで、俺たちに影響を受けたっていう若くて有名なミュージシャン達と話すと
みんな『JAMは最高ですよ』って言ってくれるんだよ。
俺たちの夢は大成功したんだよ。

中原、またいつか一緒に飲もうぜ。

吉井和哉

2style.net