〜MOVIE REVIEW〜

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

宮廷女官チャングムの誓い

いわゆる「冬ソナ」でペ・ヨンジュンの人気が
爆発したこともあり、また、それ以降の韓流の
TVドラマの傾向もあり、どうも韓流モノとい
うと、思いきりベタな恋愛モノといったイメー
ジが強い日本なのだが、こういったイメージで
韓国の映画やTVドラマはずいぶん損をしてい
んじゃないかと思う。
損をしているのは、そういう色眼鏡で見られる
韓国映画界だけではなく、そういう色眼鏡で韓
国映画を見てしまっている人達も、やっぱり損
をしている。
それはなぜか?
そんな色眼鏡で見ることで、本当に素晴らしい
韓国産の映像文化をみすみす見逃してしまって
いるからだ。
これは中国映画にも当てはまることだろう。
ジョン・ウー監督の映画は確かに印象的だが、
だからといってその印象に囚われて、中国映画
はこういうものだろう‥などと思い込んでしま
うと、例えばウォン・カーウェイ監督を見逃す
ことになってしまったりする(まぁそんなこと
はないとは思うが‥苦笑)。
韓国映画もこれと同じで、韓国映画は決して恋
愛ドラマに特化しているわけではなく、ちゃん
と全方位的に観応えのあるものを創り出せる立
派な実力がある。
今回採り上げた「大長今(デジャングム)」こ
と「宮廷女官チャングムの誓い」は、映画では
なくTVドラマだが、圧倒的な面白さを誇る見
事な歴史絵巻だ。
この「チャングム‥」に相当する日本のTVド
ラマは何だろう?と考えると、少なくとも民放
のドラマでは「チャングム‥」に匹敵するもの
は今現在は作られていないだろうと思う。かろ
うじてNHKの大河ドラマが「チャングム‥」
に匹敵するだろうか?
NHKの大河ドラマは、広義の意味での立身出
世モノで、この部分は「チャングム‥」にも通
じるものがあるが、主人公の歩む道程の波乱万
丈ぶりでは、大河ドラマは「チャングム‥」に
大きくリードされているのではないか?
ここらへんは、俺は個人的には、日本人がモロ
に農耕民族なのに対して、韓国人は騎馬民族だ
からなのだろうと思っているのだが、親子2代
に渡る国を巻き込んでの復讐劇などという発想
からして、まず遠大だ。
いくら半島だとはいえ、広大なユーラシア大陸
と地続きなのだなぁと感じざるをえないような
ドラマのスケールの大きさが何よりもまず魅力
的だ。
しかもそこに、ドラマ前半部では華麗な宮廷料
理が、ドラマ後半では奥深い漢方医学が深く関
わってくるあたりの妙味が素晴らしい。
あと、NHKの大河ドラマでは、登場人物がす
べて歴史上実在した人物でもあるためか、どの
キャラクターも、良い面もあり悪い面もあり‥
といった描き方をされることが多いと思うが、
その点この「チャングム‥」は、登場人物が、
まぁものの見事に善玉悪玉にスパっと分かれて
いるのが観ていて本当に痛快だ。
そして、どうしても特筆すべきは、このドラマ
の「核」となっている厳粛な儒教精神だろう。
かつて遠い昔には日本にもしっかりと息づき、
しかし敗戦と共に失われてしまった、人として
いかに在るべきか?を指し示す儒教精神が、こ
の「チャングム‥」の中には歴然と聳え立って
いる。それも極めて「まっとう」な形で、だ。
今の日本でも儒教精神の復興が叫ばれる状況は
あるが、えてしてそういう状況というのは、世
相の乱れを嘆きながらも、その乱れの原因を他
者に求め、他者を律し、時には糾弾しようとし
て儒教精神が語られることが多い。
だが、儒教精神のそういった用い方(他者への
儒教精神の強要)というのは、実は本来の儒教
精神から最も遠く隔たったものではないか?
何も知らない馬鹿が調子に乗って偉そうに語ら
せてもらうが、本来の儒教精神というのは、他
者云々の前に、まず自らを厳しく律するもので
あるはずではないのか?そして、自らを厳しく
律することで、そこから他者への尊敬と寛容が
生まれる‥それが儒教精神ではないのか?
‥そういうことが、この「チャングム‥」を観
ていると、理屈抜きで心に訴えかけられるのを
感じる。
ずいぶんと怒り肩の文になってしまったが‥
最後にしっかりと触れておきたいのは、やは
り何を置いても、主人公であるチャングムの
魅力だろう。
怒り、泣き、笑い、恨み、挫折し、打ちひし
がれ‥それでも希望を失わず自分の信念を貫
くチャングムの姿には、本当に心を奪われて
しまう。
そのチャングム(成人してからの)を演じて
いるのが、韓国のトップスターであるイ・ヨ
ンエだ。
CMモデルとしてデビュウしたイ・ヨンエが
「酸素のような女性」と評されたのは有名な
話だが、このキャッチフレーズはまさに言い
得て妙だと思う。
かつて日本の映画界で吉永小百合がそうだっ
たように、イ・ヨンエには、外見もさること
ながら、内面から滲み出る後光のような美し
さがあるのではないか?
何色にも染まらないこの純潔の輝きこそが、
(本物の)スターであることの証しであり、
このイ・ヨンエの存在なしには、「チャング
ム‥」の成功はあり得なかっただろうと強く
思う。
なにがしかの美しい香りのする女性スターは
日本にもいるが、このイ・ヨンエのように、
なんの匂いもない、酸素のような女性は、残
念ながら、今の日本の芸能界にはいないので
はないか?
諸外国の例に漏れず、韓国でもスターの映画
への出演料がうなぎ登りに高騰しているらし
いが、そんな高額な出演料を貰っていても許
せるスターの第一位にイ・ヨンエが輝いてい
るのも、当然といえば当然のことだろう。
なんだか全編に渡って固い内容のレビュウに
なってしまったが、そんなムツカシいことを
なにも考えなくても、余りにも面白過ぎるこ
の「チャングム‥」。
一日も早い完全版DVDの発売を望みたい。

 

 

 

 

 

僕の彼女はサイボーグ

毀誉褒貶、色々と評価の分かれている映画のよ
うだが、どうしてどうして、俺は充分に楽しめ
てしまった。
まず何よりも、主演の綾瀬はるかがいい。
この映画に彼女が主演していることを指して、
「所詮アイドル映画」などという輩がいるよう
だが、俺にいわせれば、アイドル映画のなにが
悪い?といった感じだ。
日本の芸能界でアイドルというと、ただ単に大
量消費される泡沫文化の産物と捉えられがちだ
が、これがハリウッドでいえば、例えばオード
リー・ヘプバーンの出た映画などは、誰が見て
も明らかにオードリーを素敵に魅せるためだけ
に作られた映画が数多くあることは否めない事
実だろうと思うし、アイドル映画というのは、
そんな風に主演のアイドルを引き立てる可愛い
スウィーツのような映画で全然かまわないと俺
は思う。
その上でその映画がアイドルと同じく泡沫のよ
うに消費されて消えてしまう運命にあるか、そ
れともよく出来た映画として成立するか、は、
ひとえに作り手の腕と情熱次第だということに
なるのだろうが、この映画、監督と脚本が日本
人ではないというのが、本当にいい意味で映画
を魅力的にしていると思う。
この映画の脚本と監督は韓国のクァン・ジェヨ
ンという人で、恥ずかしながら俺はこの監督の
映画はこれが初見なのだが、なんでも韓国と日
本ではかなり有名な監督らしく、この映画は同
監督の「猟奇的な彼女」「僕の彼女を紹介しま
す」と合わせて「彼女」3部作になる予定なの
だそうだ。
内容のハチャメチャ具合や、ギャクの盛り込み
方(これは、山田洋次監督の「男はつらいよ」
をちょっと思い出してしまった)、それに共演
の小出恵介の芝居などが、もうなんというか、
まんま韓流テイストで、それが邦画の悪い部分
をきれいさっぱり払拭してくれた感じだ。
クライマックス・シーンのエピソードも、昔読
んだレイ・ブラッドベリの「我は唄う、この身
の充電するまで」を思い出させてくれたりした
し、全体的に見て、本当に心から「あぁ楽しい
楽しい」と思えるところが最高だった。
物語の根幹を成しているタイムパラドックスに
ついて、あれはおかしい、これはおかしい、と
様々な人が色々な不具合点を挙げているようだ
が、これについては、確かに俺も、これは少し
筋が通らないんじゃないか?と思ってしまう部
分はあったのだが、多分、大切なのは、筋が通
るか通らないかということよりも、もし仮に筋
が通っていなかったとしても、観客にそのこと
を許す気持ちにさせることが出来るかどうか?
であり、この映画はそうした部分では、きっち
り観客の許しを引き出せる力を備えていると思
う。
リー・チーガイの撮った「不夜城」もそうだっ
たが、日本と他のアジア圏の人達がジョイント
することで、とても新鮮で魅力的なテイストを
を持った映画が生まれてくると思うし、この映
画も、(良い意味で)無国籍アジア風なところ
が、文句なしに俺は気に入ってしまった。
最後になるが、綾瀬はるかという子は、とても
大きな可能性を秘めた逸材だと思う。この秋に
は、勝新の「座頭市」をリメイクした「ICHI」
も封切られるようだが、この「ICHI」も、変に
勝新の「座頭市」をリスペクトすることなく、
綾瀬はるかならではのアイドルムービーとして
の「ICHI」であってくれることを、心から期待
している。

 

 

 

 

 

いつかA列車に乗って

「いつかA列車に乗って」。
A列車をAトレインと読ませるところからも、
これは、所詮その程度の、あまり大した映画で
はない。
と、実も蓋もない言い方で冷たく切って捨てた
くなるほど、実は俺はちょっぴりこの映画を気
に入っている。
あざとい作り方をされている映画だな、とは思
う。頭の弱いパンピーはこの程度で充分雰囲気
に酔えるだろうし、ジャズ好きは彼ら彼女らが
備えている優しさにつけ込まれて、この映画を
なかなか嫌いになれない。
この映画はサブタイトル的に題名の英訳もポス
ターなどに載せていて、俺はその英訳にヤラれ
てしまったクチだ。
Take the A train someday.
こんな英訳をつけられれば、音楽好きならどう
してもsomedayに反応してしまわざるを得ない。
someday is never comingだ。
いつか、などという日は決してやって来やしな
いという切ないフレーズの影が、この映画を観
ていると、胸中に静かに染み入ってくる。
これが初監督との事だが、作詞家の荒木とよひ
さが手掛けているだけあって、台詞の端々に心
の琴線に触れる言葉が散りばめられているのも
ちょっとだけニクい。
「チャンスの神様は人生で3度だけ微笑む」と
か、「我々はもう終点に近い列車に乗り合わせ
てしまった」だとかいう台詞は、聞いていて本
当にゾクゾクする。
映画の中でも触れられているが、A列車という
のはハーレム(極貧街)からシュガーヒル(富
豪街)を結ぶ最短最速の列車で、このA列車に
「夢を掴む」という意味を重ね合わせ、映画で
は様々な老若男女がそれぞれの求める夢、諦め
た夢、ついえた夢などを抱えて登場する。
そんな男女が現れては去っていく冬のとある夜
のジャズバー「A train」の一夜を描いたのが
この映画だ。
旧いジャズバーと様々な人生模様がスタンダー
ドジャズに包まれて進行していく、その流れに
心を委ねていると、知らず知らずのうちに、い
つしか自分の人生を振り返り、その様を列車の
旅になぞらえている自分に気が付く。
俺は人生の中で、どれだけのチャンスに巡り合
い、その神様の前髪を掴み損ねて来たのだろう
か?
我と我が身を振り返り、省みればみるほどに、
俺の乗った列車は決してA列車などではなく、
否、A列車どころか、鈍行列車にすら乗り遅れ
て、みぞれ交じりの雪が降る冬の夜に鉄路の上
を独りとぼとぼと途方に暮れながら歩くような
人生だなと思う。
いつか来るかもしれないA列車をホームで待つ
ことはおろか、列車に乗るための切符すら買え
ないような俺の人生とは、一体何なのだろう?
夜の踏切に立って、通り過ぎるブルートレイン
を眺めていた昔日の自分の姿が、眼(まぶた)
の裏にまざまざと蘇る。
それでもかまうものか。
俺の人生はこの世でたったひとつしかない俺だ
けの人生なのだ。それがどんなに無様でみすば
らしいものであっても、俺は自分が選んで乗り
込んだ列車から決して降りることなく、生きて
行くのだ。
諦観と共にそう悟る心に、ジャズはあまりにも
優しく響く。
こんな映画を観、ジャズを聴いていると、自分
がどう考えても紛れもない負け犬だという事を
あまりにも素直に認めてしまい、そんな自分に
とても驚く。
だが、それも、所詮たかが1本の映画が映し出
した束の間の夢だという思いも強い。
人が人生を生きるのに必要なのは、この映画を
観て感じるような一時の休息ではなく、あくま
でも前に向かって進もうとする堅固な意思なの
だ。そしてそんな意思と世界を繋ぐ接点が「仕
事」に他ならないのだとも思う。
最後に映画の話に戻るが、あるシーンで神野美
嘉によく似た女が出ているな、と思ったら、そ
れは本当に神野美嘉だったのも面白かった。
津川雅彦や栗山千明など、新旧邦画スターが繰
り広げる芝居合戦もそれなりに見応えがあって
とても楽しい。
ただ、ジャズの雰囲気を持った映画ということ
になると、例えば米国のウッディ・アレン作品
などに比べて、この映画は、悪い意味で、いか
にも「若い」のが玉に瑕だと思う。
こんなに沢山のエピソードを詰め込まなくても
いいから、もっと絞り込んだエピソードを深く
深く掘り下げて描いて見せて欲しかった。
それに、劇中に登場するヴォーカリスト役の真
矢みきは元ヅカジェンヌなのだが、それにして
はあまり歌が上手くなかったのもちょっと興醒
めだった。あまり比べてばかりいるのも荒木と
よひさに悪いとは思うが、ウッディ・アレン作
品の中で聴くことが出来るダイアン・レインや
ミア・ファローのジャズ・ヴォーカルなどは、
本当に背筋がゾクゾクするほど絶品であり、真
矢みきのヴォーカルにそんなオーラが感じられ
なかったのがつくづく残念だった。
最後にちょっと厳しいことを書いてしまったが
これも正直な感想だから、書いておかない訳に
はいかない。
良いものを持っているがゆえに、もっとモア・
ベターなものを求めてしまいたくなる‥そんな
思いに駆られてしまう愛すべき未完成作品。そ
れが俺にとってのこの映画なのだと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

パプリカ/時をかける少女

オタク文化の隆盛に伴って力の入ったアニメ映
画が多数製作され公開されている昨今だが、奇
しくも時を前後して俺の敬愛する筒井康隆の小
説が原作のアニメ作品が2本生まれた。
それが「パプリカ」と「時をかける少女」だ。
この2本を観る機会に恵まれたので、ちょっと
感想などを書き記しておきたい。
最初にいいたい事は、アニメとは関係ないが、
筒井康隆は小説の中に魅力的な女性を登場させ
るのがとても上手いという事だ。
その代表がエスパー火田七瀬だと思うが、彼女
以外にも魅力的な女性は数多い。
筒井康隆の小説に登場する女性が魅力的な理由
は色々考えられて、それはまず筒井康隆が腕の
いい作家だからというのは当然だが、筒井康隆
の描く世界というのが大抵が悪夢のごとき世界
であるがために、そこに登場する女性の可憐さ
がますます際立つということも考えられるだろ
う。
幸いにして「パプリカ」も「時かけ」もそうで
はないが、筒井康隆はそうして登場させた魅力
的な女性に非業の最期を提供することが多く、
それは「フェミニズム殺人事件」のようにナイ
フで刺し殺されるといったオーソドックスなも
のに始まって、「俺の血は他人の血」などでは
ロードローラーに轢かれてペチャンコにされる
だとかいった惨いものまでバライティに富んで
いて、そんな女性達の最期が生み出す悲惨さが
ますます小説内の世界の悪夢ぶりを際立たせる
効果も発揮しているのが魅力的だった。
なんで肝心のアニメの感想の前にこんなことを
いっているのかといえば、それはとりもなおさ
ず、「パプリカ」「時かけ」共に主役(もちろ
んどちらも女性だ)が、筒井康隆が描くところ
の女性像とは微妙にズレが生じている‥という
か、もっと有り体にいってしまえば、ヒロイン
として見た場合、あんまり魅力的でないのが印
象的だったからだ。
ではヒロインとして魅力的だというのは一体ど
ういうことをいうのかといえば、それはスタジ
オ・ジブリの宮崎駿の言葉を借りるのが一番分
かりやすいだろうと思う。
宮崎駿はスタッフが「宮崎アニメのヒロインっ
て、ウンコもオシッコも全然しなさそうなんだ
よなぁ」と談笑しているのを聞いて烈火のごと
く怒り、そのスタッフに向かって、「じゃあお
前達はウンコやオシッコをしそうなヒロインが
見たいのか?!」と雷を落としたというが、確
かに宮崎アニメのヒロインはそういった宮崎駿
の美学に忠実に則ったものだという事は出来る
だろうし、この美学は実は宮崎駿だけのもので
はなく、あまねく広くヒロインをいうものを定
義づける時に応用できるセオリーだともいえる
のではないか?
ただ、そういった従来通りのセオリーから外れ
ているがために魅力的に見えない「パプリカ」
や「時かけ」のヒロイン達がただ単純に魅力の
ない存在かといえば決してそんなことはなく、
ヒロインとしては落第点ではあるけれども、人
間としての魅力は十二分に持ち合わせているの
は、これもまた事実であり、そういった意味で
はジェンダーレスなども含めた現代の世相に合
わせた新しいヒロイン像というものが昨今のア
ニメの一部では採用されているのかも知れない
と思う。
そんな、いわゆる「等身大」のヒロイン達が活
躍する「パプリカ」と「時かけ」なのだが、個
人的な感想でいえば、「パプリカ」は及第点す
れすれで「時かけ」は優という採点になる。
なるほど「パプリカ」はよく出来ている。
「千年女優」を俺は知っていたから、あのテイ
ストであればひょっとしたら「パプリカ」の映
像化も不可能ではないんじゃないのか?と思っ
てはいたのだが、何分この場合は原作の「パプ
リカ」が手強すぎたというのが実際のところで
はないか?
なにしろ筒井康隆は筋金入りの映画狂で、しか
もサブカルとして認知される何十年も前から漫
画の持つ力に脅威を感じ、小説でしか表現でき
ない世界を構築しなければ映像や漫画には太刀
打ちできないというのを信条に作品を生み出し
続けてきた人だから、「パプリカ」もすさまじ
いばかりの言語マジックが溢れていて、そのト
リッキーな部分については実に巧妙に映像化す
ることに成功していると思うが、狂気やエロテ
ィシズムや恐怖といった重要な要素がことごと
く映画「パプリカ」から抜け落ちているのが本
当に痛い。
まぁこれは多分に無い物ねだりなところが大な
感想ではあるのだが、狂気と恐怖とエロとヒロ
インの魅力がない「パプリカ」というのは、こ
れはもう炭酸の抜けきった常温のビールみたい
なもので、ちょっとカンベンといった感じなの
が正直なところだ。
これに比べて「時かけ」は、原作は40年も前
に書かれた、しかもジュブナイルだということ
で、原作の呪縛もそれほど大きくはなく、しか
も過去にTVや実写の映画で映像化されている
ということも幸いし、アニメとしての新しい解
釈で「時かけ」を再構築することに成功してい
るように感じられる。
なにしろ、元がSFとはいえ「時かけ」は青春
ドラマでもあるわけだから、ヒロインの魅力が
なくても人間としての魅力があれば、主人公は
充分に輝くことが出来る。
また、内容を思いきって現代にスライドさせた
た事で、そのヒロインも含めた登場人物たちの
人間性が今の若者像を実に自然に活写出来たの
もアニメ「時かけ」が成功した所以だろうと思
う。
‥などといった感じで色々書いてはいるが、本
当のところをいわせてもらえば、こうして書か
れた文章が自分の感想をどれだけ表現できてい
るかといわれれば、まるで表現できていないと
いうのが実情だ。う〜ん、どうすれば自分の思
いをストレートに文章にすることが出来るのだ
ろう(苦笑)?
そんなことはともかく、今の日本のアニメーシ
ョンの技術の水準を考えると、筒井康隆の作品
の映像化はどう考えても実写よりもアニメの方
が適していると思うし、これには相当の度胸と
勇気と向こう見ずが必要だとは思うが、この際
どこの誰でもいいから「虚構船団」や七瀬シリ
ーズのアニメ化に挑戦するような猛者はいない
かな?と期待している今日この頃だ。
最後に。
「パプリカ」を観ていて思ったのだが、紙吹雪
の扱われ方がとても印象的だった。
考えてみれば「イノセント」や「スチームボー
イ」でも紙吹雪がとても印象的だったと思う。
これは今の、ある種のアニメ作品の、ひとつの
トレンドなのだろうか?

 

 

ダンサー・イン・ザ・ダーク

世の中に、こんな映画が存在したとは。そして
その事実を知らずに映画ファンを名乗っていた
俺の愚かさの底知れなさとは‥
まずどうしても書いておきたいのは、この映画
の事を、世界中で俺以上に理解し共感できる人
間は、他に一人もいないだろう、という事だ。
そして、そんな文言をここにこうして書きなが
らも、多分この映画を観た人間のすべてがそう
感じただろうという事も容易に想像できてしま
う自分の想像力が、自分自身でたまらなく哀し
い。
だから、前言を撤回して、文言を、こう改めよ
う。
この映画を観て、世界中で一番この映画を理解
し、この映画に共感できるのは自分以外にいな
い、という思いを胸に抱けないような人間がも
しいたとしたら、その人間は7度生まれ変わり
死に変わってもこの映画を観る資格はない。
人の想いは全方位的に発展が可能だから、想い
が向かう先が常に公明正大な訳がなく、想いの
中には、自分がこんな想いを抱いていることは
なにがあっても決して人に知られてはならず、
その想いについては貝のように固く口を閉ざし
決して誰にも語らず、墓の中まで独りで抱えて
いかなければならないというような想いも当然
ある。
俺の中にあった、そんな想いのひとつが、どこ
がどんな風にとは口が裂けてもいえないが、ま
さかこれ程生々しく映像化されて、しかも全世
界で映画として公開されていたとは、よもや夢
にも思いはしなかった。
その事実自体が悪夢だというのなら、その悪夢
の姿というのは、絶対に秘匿しておきたかった
俺の心の最深部の闇の姿でもあり、この映画か
ら受ける感動というのは、映画を映すスクリー
ンが、そのまま巨大な鏡になり、そこに映った
自心の、悪夢のごとき姿を赤裸々に目の当たり
にさせられることによって受ける衝撃そのもの
に他ならない。
それも、よりによって‥繰り返すが、よりによ
ってミュージカルとは。
まぁ俺は世界で一番この映画を理解している人
間でもある訳だから(苦笑)、この映画が、な
にがなんでもミュージカルでなければならなか
った理由も理屈を超えて脊髄反射的に同意でき
るが、それにしても、だからこそ、この広い大
宇宙の中で俺一人だけのものだったはずの想い
を失った喪失感は計り知れない程大きい。
この映画を撮ったラース・フォン・トリアー監
督に対しては、よくぞ撮ってくれたという喝采
と、俺だけのものだったはずの想いを、元通り
に俺だけのものにして返せ!という怒りを同時
に強烈に感じている。
しかし、まさかこの年になって、たった一本の
映画を観ることで、これ程の喪失感を心に覚え
るとは‥
この映画は俺の中では、その不謹慎さでは孤高
のトップであり、その地位は、これはもう本当
に、よほどの事がない限り脅かされることはな
いだろう。
そして、それ程までに不謹慎極まりないからこ
そ、この映画は、同時に、俺にとっては、限り
なく価値がある映画でもあるのだ。
ここまでこの文を読んできて、一体この映画に
ついて俺が何を語っているのか分からないとい
う人間がいたとしたなら、そういう人には未来
永劫この映画を理解することは出来ないだろう
と思われる。
よりネイキッドなレビュウを目指してこの隠し
ページを作っている俺なのだが、今回のレビュ
ウは、いつにも増してネイキッドなものに仕上
ったな、という満足感が大きい。
このサイトを見てもらえば分かる通り、俺は写
真とテキストという手法を用いている表現者な
のだが、この映画を観たことで、表現というも
のについて、今までよりもさらにまた一歩その
実体に近づけたな、という確信がある。
そんな確信が持てた以上、ではその確信をどう
表現していくか、について、命がけで真剣に考
え、その体現に鋭意努力せねばなるまい、と決
意を新たにする俺自身が、ここにいる。
そんな俺のことはさておくとしても、それにし
ても世界は広いという事を痛感させられた映画
だった。それは、この映画が現実に映画として
成立してしまう事が出来る程世界は広かったの
か、と実感したという意味だ。
まったく、世の中には、こんな風なとんでもな
い映画が何気に存在しているからおちおち気も
抜けない(大汗)。
‥といったような事をつらつらと粗雑に書き殴
ってきつつ、一息入れるつもりで、世間一般の
人はこの映画をどう観ているんだろう?と思っ
てあるレビュウページを覗いてみたのだが、ま
ぁ書いてある批評のそのひとつひとつ、悉くが
ものの見事にスカタンな事に唖然呆然としてし
まった。暗い、だの、救いがない、だの、泣け
る、だの、芸術、だの、そんな上っ面ですらな
い感想しか持てない人間の、なんと多い事か。
今の日本には、感受性と想像力がとことん足り
ないな、という事を、この映画のパンピー(一
一ピープル、の事だ)のレビュウを読んでつく
づく思い知らされた。
俺にいわせれば、人間の心というのは、この映
画が描く暗さを創造出来て当たり前なのだ。と
いう事は、この映画を観てその暗さに耐えられ
ない人間というのは、これはもう人間としてそ
の心に致命的な欠陥があるとしかいいようがな
い。
なにも俺はこの映画を暗くない、などとはいっ
てはいない。ただ、その暗さに共鳴し、それと
同じ闇を当たり前に創り出せるだけの力は、人
の心は普通に持ち合わせているだろう、といっ
っているのだ。
そして、こんないわずもがなの事はここでは金
輪際書くつもりはなかったが、それを踏まえて
敢えて書けば、そんな闇を当たり前に生み出せ
てしまう自心の不謹慎さの他者との共有こそが
この映画から得られる最大のカタルシスである
はずなのだ。
そんな自明の理も自覚出来ずにこの映画を観る
人間がいる、という事に、そして、そんな人間
が臆面もなくこの映画についてその薄っぺらい
感想を語ってしまえる一億総レビュアー化時代
に、正直、虫唾が走るのを禁じえない。
これ以上文を続けると、果てしなく天井天下唯
我独尊な内容になってしまいそうなのでここら
へんで切り上げさせてもらうが、一億総レビュ
アー化の持つ問題点については、いつかどこか
でしっかりと書き記す必要があるだろう。
最後に一言だけ。
この映画に限らず、なにかの作品に対してつま
らなかったと批評するパンピーについては、つ
まらないのは作品ではなく、その作品を評価で
きないお前の浅はかな存在自体がつまらないん
だよ!と、声を大にしていっておきたい。

 

007/カジノ・ロワイヤル

まずはなにはともあれ、このポスター(?)を見て欲しい。
今まで通りのフォーマットだとポスターが小さくなり過ぎて、このポスターの持つ
インパクトが読む人に全然伝わらないだろうから、今回に限ってフォーマットを変
更してまでも、より見やすい状態でのポスター鑑賞の勧め、である。
さて、このポスターをご覧になって、どうだろうか?等と質問してみても始まらな
い(苦笑)。実は俺の、この映画のファーストインプレッションがご覧のポスター
だったのだ。
今までボンドを演じてきたピアース・ブロスナンが降板して、ダニエル・クレイグ
がボンド史上初の金髪碧眼のボンドとしてスクリーンデビュウする事くらいは俺も
色々な所で伝え聞いて知ってはいた。だが、そういった「ニュー・ボンド登場」に
あたってのインパクトをそれなりに予想していた俺でも、初めてこのポスターを見
た時には思わずノケゾってしまった。
このポスターを一見してまず思ったのは、「お、そう来たか。」という大人の余裕
での受身だった。新しいボンドを配して新スタートをする以上、新機軸を打ち出す
必要がある。今まではボンド映画のポスターは必ずジェイムズ・ボンドがメインだ
ったが、今回は新機軸という事で、敵役であるル・シッフルをポスターの全面に打
ち出してきた、という訳なのだな、と俺は思ったのだ。だってそうだろう。誰がど
う見ても、このポスターの男は極悪人以外の何者にも見えはしないのだから。
そうなのだ。俺は、この男が敵役のル・シッフルだと思い込んだから、大人の余裕
をカマしていられたのだ。そして、実はこの男は敵役のル・シッフルなんかではな
く、否、敵役でも何でもないどころか、この冷酷非情を絵に描いたような極悪人面
した強面の男こそが今回新登場するジェイムズ・ボンドその人なのだと知って、俺
は思わずノケゾってしまったのだ。
ショーン・コネリーの色気、ジョージ・レーゼンビーの初々しさ、ロジャー・ムー
アの紳士ぶり、ティモシー・ダルトンのクールさ、ピアース・ブロスナンの甘さ‥
役者によってその特質は変わっても、すべてのボンドに共通していたのはお洒落さ
であり、ゴージャスさであり、正義漢ぶりであり、英国紳士ぶりでもあった。
ところが、このポスターを見る限り、ダニエル・クレイグからは凶悪さや非情さや
冷徹さしか匂ってこない。四半世紀に渡って連綿と続いてきたジェイムズ・ボンド
の系譜から、ダニエル・クレイグは、あまりにも逸脱し過ぎている。
007シリーズならではの「お約束」の世界に首までどっぷりと浸りきっていた俺
に、このポスターは本当に衝撃的だった。
「まぁ言うても007シリーズちゅうんはそういうもんやさかい、お互い子供やな
いんやし、そこんところはひとつよろしゅう頼んまっせぇ。」と法被姿で揉み手を
して観客を「馴れ合い」の世界にご案内し続けていたはずの007のスタッフが、
いきなり手の平を返したように「お約束はもうウンザリだ!」とブチ切れたかのよ
うな、そんなこのポスターにおける007のイメージの激変ぶりに、俺は思わず0
07ファンとしての居ずまいを正し、背筋をピンと伸ばさざるを得なかった。そし
て、そんな俺のファースト・インプレッションが、結果的にこの映画のすべてを如
実に物語るものでもあった。
巷ではこの映画に対する否定的な意見は事欠かず、それらを集約すると、この「0
07カジノ・ロワイヤル」はシリーズとしての首尾一貫性を根底から覆してしまう
ほど同シリーズの他作品との整合性が破壊されている、という結論に達するだろう
と思われる。
だが、今まで30年以上007を大好きで追いかけ続けてきた俺からいわせてもら
えば、そんな風にシリーズとしての体裁を完膚なきまでに捨て去ってまでも、00
7のスタッフが撮ろうとした映画が、こんな骨太で硬派な大人向けのハードアクシ
ョン映画だったという、その事実が、もう涙が出るくらいに嬉しくて嬉しくてたま
らないのだ。
お子様向けの甘〜いバニラの香りがするようなアクション映画は、ハリウッドに任
せておけばいい。少なくとも、大英帝国が製作する映画であるならば、大人こそが
一番楽しめるようなブラックコーヒーに通じるビターテイストの映画であるべきな
のであり、その事実と理念を作品そのものをもって語らしめているかのようなこの
作品によって、初めてイーアン・フレミングが創造した英国諜報部員007ジェイ
ムズ・ボンドはその本当の姿を観客の前に現したのだともいえるだろう。
この「カジノ・ロワイヤル」を、007シリーズの他の作品と比較するのはナンセ
ンスだ。なぜなら、(もし今後この路線がしっかりと踏襲されるならば)この作品
は、今まで続いてきた007シリーズにとどめを刺して息の根を止めるための、全
く新しい映画なのだから。
今まで世界中の観客から親しまれ続けてきた007シリーズは、「ロシアより愛を
こめて」を最高傑作としたまま前作の「ダイ・アナザー・デイ」で終焉を遂げたの
だ。
長きに渡って007フリークであり続けた一人として、俺はこの映画を全面的に肯
定し、受け入れようと思う。そして、新たな伝説の誕生を心から祝福したいとも思
う。
世界制服を企む秘密結社や秘密兵器やボンドガール。そういったお約束は、お約束
のまま、永久の眠りについてもらうのが、確かに一番の道なのかも知れない。
全ての過去を捨てて新たな地平線に向かって走り出したジェイムズ・ボンド・スト
ーリーが、このまま失速することなく大人のテイスト全開で突き進んでいってほし
い、と、心の底から願っている俺がいる。そしてそれは、俺がハードボイルドが好
きなだけでなく、男の最期の価値はその男の持つハードボイルドさだと思っている
事とも関係しているに違いない。
ハードボイルド&ワイルドなニュー007に乾杯!

 

 

 

 

生きない/七人の弔

「七人の弔」という映画が、たけし軍団のダン
カンの手になる第1回監督作品だという事を知
って、俺はちょっと混乱してしまった。
というのも、ダンカンの映画、という意味では
俺の中では「生きない」が鮮烈に印象に残って
いたからだ。
慌てて調べ直したら、「生きない」の方はダン
カンは脚本だけを担当していた。とはいうもの
の、俺の中ではそれを確認した今でも「生きな
い」は「ダンカンの映画」なのであり、そうい
う意味では、「七人の弔」は、俺にとっては2
本目のダンカンの映画だという事になる。
これが俺の勝手な思い込みなのか、それとも本
当にこの2本が同一人物の作品だと認識するに
足る映画なのかは、論より証拠に、この2本を
見比べてみるといい。どちらの映画も客を待つ
ツアーバスと、その添乗員であるダンカンから
始まる。つまり、この2本の映画は、導入部が
完全に韻を踏んでいるのである。
「生きない」の方は、家族に生保による遺産を
残そうとしている人達ばかりの人生最後の自殺
ツアーに何も知らず何の関係もない女の子が普
通のツアーと間違えて紛れ込んでしまう話で、
「七人の弔」は何も知らない我が子を移植用の
臓器提供のドナーとして売り渡す目論見の親達
が、その子供を臓器カルテル?に売り渡すため
に用意されたキャンプツアーに子供と一緒に参
加する話だ。
どちらも真面目に考えれば地球が逆転しても冗
談のネタにすることが出来ないような厳粛なテ
ーマだし、実際真面目に考えれば考えるほど思
考が錯綜してしまうような重厚な話ではある。
そんなテーマを、二コリともしないで不謹慎に
弄び、ヒューマニズムも道徳も倫理も見境なし
に踏み躙り蹴散らして突き進むダンカンの、そ
の苦みばしって凄みの効いたブラックユーモア
が、理屈を超えてとにかくカッコいい。
ダンカン自身が発する無気力なダルさも、その
カッコよさにさらに拍車をかけているような気
がする。
だってそうではないか。ブラックユーモアは額
に汗して頑張ってやるよりも、実際には信じら
れないくらいに頑張っていたとしても、その努
力を微塵も感じさせないように軽々とやっての
けるほうが段違いにスマートなのである。
日本人は真面目な人が多いから、こういう映画
に対して、不謹慎だとか、悪趣味だとかいった
酷評が下されるような事態も当然起こり得るだ
ろうな、でも、自殺だとか我が子の虐待だとか
いった重いテーマを不謹慎に、かつ、悪趣味に
扱うところにこそ、ブラックユーモアの存在意
義があるはずなのだ、といった思いが、俺の中
に強く湧き上がってくる。
自分が死ぬことによって得られる金でしか家族
を救えないだとか、子供を日常的に虐待してい
る親が我が子を臓器売買のドナーとして提供す
だとかいったテーマは、当事者にとっては、絶
対に奇麗事では済まされない壮絶なテーマであ
るはずなのであり、第三者がそうしたテーマと
向かい合った時に、俺が一番不愉快なのは、綺
麗事では済まされない部分には完全に目を瞑り
目を背け、そして一般論での当たり障りのない
美辞麗句だけを並べ立てて事を済まそうとする
マスコミにありがちな事なかれ主義的な批評を
恥ずかしげもなくひけらかすド阿呆共がいる、
という現実で、ダンカンのこの2作品に見られ
るようなブラックユーモアは、そうしたテーマ
に直面している当事者達ではなく、そんな当事
者達をしたり顔で批評するド阿呆をこそ笑いも
のにしているのであり、そこの部分が俺などか
らすると、もうどうしようもないくらいにカタ
ルシスなのである。
ダンカンには、この路線でまだまだ色々な映画
を撮ってもらいたい。
3作目(2作目?)もオープニングが観光バス
と、ツアー客を待つダンカンの絵から始まった
ら、本当に楽しいだろうなぁ。

 

 

 

 

 

ジョゼと虎と魚たち
/メゾン・ド・ヒミコ

動機はとことんいい加減で不純だった。
「ジョゼ‥」については、ただ単に池脇千鶴の
ヌードを一目見ておくのも悪くはないかな?位
の動機だったし、「メゾン‥」は、柴咲コウが
どんな芝居をするのか?を、これも一目見てお
くのも‥位の軽い了見だったのだ。
だから当然予備知識もなにもなく、この2本を
続けて観たのは、紛れもなく偶然の産物以外の
なにものでもなかった訳なのだ。
そんなていたらくで接した「ジョゼ‥」と「メ
ゾン‥」の2本は、実はどちらも犬童一心とい
う監督が、しかも連続して撮った映画だった。
「ジョゼ‥」は身障者の女の子と健常者の大学
生との恋愛ストーリーで、「メゾン‥」はゲイ
バーのママが店をたたんで始めたゲイ専門の老
人ホームで働くことになる女の子の話だ。
どこかで誰かがこの2作品について、「片輪の
次は変態か。この監督の映画は出来損ないの主
人公ばっかりだな。」みたいな2ちゃんねる的
な捨て台詞を吐いていたが、そのドギツい煽り
文句を目にするまでは、俺はその2本をしっか
り観ていたのにも関わらず、2本の映画の題材
の、その社会的不適合性については全く思いを
馳せることがなく、その文を読んで、初めて
「あぁ、そういえばそうだな。」
と思ったりもした。
主人公や登場人物達の、その特性を見落とすと
いうのは、まず第一に俺が無神経でがさつで馬
鹿だからなのだが、それと同時に、犬童一心監
督の描き出す映画の登場人物達が、彼らの抱え
るウィークポイントを、観ている者に思わず忘
れさせるほど強烈なキャラクターの持ち主ばか
りだったから、という理由も大きいと思う。
「ジョゼ‥」では恋愛、「メゾン‥」では相克
と、その関係性は明らかに正反対のベクトルを
持ってはいるが、恋愛も相克も、実は同程度の
エネルギーを必要とする「魂同士の凌ぎ合い」
な訳で、そう考えると、「ジョゼ‥」も「メゾ
ン‥」も、健常者と社会不適合者の命がけのぶ
つかり合いの映画だという事が出来るのではな
いか?
こんな風に「魂同士の凌ぎ合い」とか「命がけ
のぶつかり合い」とか書くと、まるでこの2作
品が激烈極まるドラマのように感じられてしま
うかも知れないが、実際は全く逆で、2作品に
共通しているのは、「優しさ」や「柔らかさ」
や「穏やかさ」だ。
低いバリトンの声でゆったりと語られるような
独特のテンポで紡がれる犬童一心監督の世界は
、そんな穏やかな語り口ゆえに、観る者の心に
深く深く分け入ってくるような気がする。
ハンディキャップを持った人間を題材として採
り上げた映画は、往々にして、そのハンディを
乗り越える事の尊さを必要以上に美化して描い
てしまい、結果的にそれを観る健常者に、「へ
いへいなるほど確かにごもっともで立派なお話
でございますねぇ。でも、こういう奴(ハンデ
ィを背負った主人公)とは友達にはなりたくな
いね。だって、一緒にいても煙たくてたまらな
よ。」といった感想を持たれがちだが、「ジョ
ゼ‥」も「メゾン‥」も、出てくる生活不適合
者が、皆人間的な欠点を持っている所に、なん
ともいえない風通しのよさを感じてしまう。
ハンディキャップがあればそこからコンプレッ
クスが生まれるのは当然の話だし、コンプレッ
クスがあれば、社会に対して常に敵対的な臨戦
態勢で挑むのは、もっと当然な事だと思う。
犬童一心監督は、そんな社会不適合者を、野に
咲く花をカメラでスナップするように、衒いや
迷いのない真っ直ぐな目線で描き出していく。
そして、その地に足の着いた清廉さから生まれ
るどうしようもない穏やかさに、この2本を観
た俺は完全にKOされてしまったのだった。

 

 

不夜城

俺は表向きには小説の中でもハードボイルドが
特に好きで、日本のハードボイルド作家の中で
は大沢在昌が大好き、などといっているが、本
当の事をいうと、自分の魂の中の一番どす黒い
部分が最も強く惹き付けられるハードボイルド
作家は、馳星周だ。
その馳星周のデビュー作(だったかな?)を映
画化した「不夜城」は、大沢在昌原作・滝田洋
次郎監督の「眠らない街・新宿鮫」、奥田瑛二
主演の「ありふれた愛に関する調査」と並んで
俺の中では邦画ベスト・ハードボイルド三部作
になっている。
ちなみに、些事だが、映画「不夜城」の英題は
「SLEEPLESS TOWN」。大沢在昌の小説「新宿鮫
」の映画化作品も、小説のタイトル「新宿鮫」
はサブタイトルとして扱われて、メインタイト
ルは「眠らない街」だ。この偶然の一致が、な
んともいえず面白い。
で、この映画「不夜城」については、いつでも
観る事が出来るように、とビデオに録画してあ
ったのだが、昨今はビデオは最早過去の産物で
あり、DVDが全盛だ。しかも、ビデオは画面
の左右が16:9から4:3にカットされてい
て、それがどうしても面白くない。
そこで、けっこういい値段なのだが(定価が6
千円也)DVDを買ってしまった。
一応俺はこの「不夜城」を邦画というくくりで
捕らえているが、厳密に言えば、これは日中合
作の映画だ。クレジットロールを見ていても、
スタッフ、キャスト共に日本人名中国人名が入
り混じっている。ちなみに監督は季志殻(リー
・チーガイ)だ。
そういう事もあってか、映画「不夜城」は、邦
画でありながら、まるで香港フィルムノワール
を観ているような不思議な心持ちを味わえる映
画で、それがこの映画の最大の魅力のひとつに
もなっていると思う。
悪漢達が謀略と裏切りの中で疾走する馳星周ワ
ールドが実に巧みに、かつ、スタイリッシュに
映像化されているのも特筆に価する。
一部では呉富春を演じた椎名桔平がミスキャス
として失笑を買っているようだが、俺は全然そ
うは思わない。椎名桔平は、この映画で実にい
い仕事をしていると思う。
いい仕事といえば、主演の金城武はもちろんの
事だが、ヒロインである佐藤夏美を演じる山本
未来がもうたまらなくいい味を出している。
確か元々はこの佐藤夏美の役は、当時人気絶頂
だった葉月里緒菜が演じるはずだったと思う。
葉月里緒菜が演じる夏美も、それはそれでミス
テリアスでよかっただろうとは思うが、結果的
には代役で抜擢された山本未来が、美味しい所
をゴッソリと独り占めしてしまった感じだ。
後、この映画の一般評で、途中の温泉シーンが
「TVの2時間サスペンスみたいでいただけな
い」と不評なようだが、これも俺的には全然O
Kだ。こういう、ある意味イノセンティックな
部分があるからこそ、馳星周のドラマは、その
どす黒さや哀しさの魅力が引き立つのだ、と俺
は思う。
人情万歳(マンセー)お涙頂戴が定番だった邦
画の世界でも、今ではこんな風にクールなピカ
レスクロマンが描けるようになったのだなぁ、
という感慨が、この映画を観る度に胸中にこみ
上げてくる。
「ありふれた愛に関する調査」はともかく、滝
田洋次郎の「眠らない街・新宿鮫」も、この馳
星周の「不夜城」も、とてもよく出来た映画だ
と思うのに、原作がそれから先も続いているに
も関わらず、映画の方がどちらも単発で終わっ
てしまっているのが残念でならない。

 

 

レイクサイド マーダーケース

10代の頃からずっと洋画、それも欧米映画命
だったが、いつの間にかそれ以外の国の映画も
美味しく戴くようになり、今ではもっぱら邦画
ばかり観ている。
これは俺自身が変わってきたからという事もあ
るだろうし、それと同様に邦画自体も変化して
きたからなのだと思う。
有り体にいってしまえば、邦画の変化というの
は、邦画界のTV界への迎合だともいえるのだ
ろうが、現実問題として、事面白さに限ってい
えば、映画よりもTVの方が面白いのだから、
こういう流れは素直に歓迎すべきだと思う。
そういう流れの中でも、やっぱり映画の持つ映
画らしさというのは姿形を変えて残っていくも
のの様で、この映画「レイクサイド マーダー
ケース」も、多分あまりTV向きではない題材
を採り上げた映画なのだろうと思う。
中学へのお受験を控えた3組の家族の、湖畔の
別荘を使った夏季合宿中に起きる殺人事件が映
画の表向きのメインストーリーなのだが、この
映画には、お受験というものに対する塾(指導
者)側の、子供側の、親側の、様々な思惑や感
情がきめ細やかに描かれ絡み合うことで、よく
出来た舞台劇を観ているような重厚なドラマを
味わう事が出来る。
それにしても、この映画に出てくる役者達は、
皆が本当に演技を楽しんでいるのがよく分かる
のが観ていて本当に心地いい。黒田福美や杉田
かおる、鶴見辰吾は堅実にしっかりとバイプレ
イヤーとして過不足なく脇を固めているし、役
所広司や柄本明が巧さの本領を存分に発揮して
いるのもさることながら、俺的には、薬師丸ひ
ろ子と豊川悦司がたまらなく良かった。
薬師丸ひろ子も、豊川悦司も、いってみれば、
かつて一時代を風靡した経験を持つスターだ。
その二人が、人気の山をちょうどいい頃合いま
で下り降りて、ちょうどいい按配に草臥れて、
程よい剣呑さを漂わせながら演技をしているの
を観るのは、格別な味わいがあると思う。
ビリング(役付け)としては前述した俳優達の
後に回ってしまうが、物語のキーマン(キーウ
ーマン)となる眞野裕子もピリリと小気味よい
印象を残している。
お受験といった今日的な問題をテーマとして採
り上げている関係上、果たしてこの映画が今後
普遍的に名作として語り継がれるかどうかとい
う部分については多少の疑問が残るが、なに、
そんな事はどうでもいい事なのである。
題材がいくら古びて時代から外れようと、役者
の好演は決して色褪せたり古びたりはしないだ
ろうし、この映画は、そんな役者の演技をこそ
心行くまで味わえる映画なのだ。

 

 

交渉人真下正義

「踊る大捜査線」のシリーズは、その確信犯的
なコミカルさが好きで、TV、特にドラマは滅
多に観ない俺もTVシリーズの頃からずっと追
いかけていたが、何分飽き性なもので、途中で
追いかけ続けるのに息切れしてしまい(汗)、
ずっと放り出してしまっていた。
そんな俺なのだが、つい先だってその「踊る」
シリーズのスピンアウト作品である映画「容疑
者室井慎次」を観る機会に恵まれた。
で、感想は、というと、今一今二をずっと下っ
て、正味な話今三今四といった印象を受けた。
映画「容疑者室井慎次」を観るのとちょうど前
後して、実相寺昭雄監督の映画「姑獲鳥の夏」
も観たのだが、「室井‥」と「姑獲鳥‥」は好
対称な映画だな、といった印象を持った。
具体的にいうと、「姑獲鳥‥」が努力の末の失
敗作だとすると、「室井‥」は安易な成功作、
といった意味で対称的だと思ったのだ。
そんな訳だから、映画「交渉人真下正義」も、
多分どうせ過去の本シリーズの人気におんぶに
だっこの安易な柳の下のどじょう狙いだろうと
いう先入観を持って観たのだが、どっこいそれ
がさにあらずで、実に面白く、楽しく観る事が
出来た。
娯楽映画というのは、観客を、どれだけ「あり
もしない嘘の世界」に浸らせることが出来るか
が最大のポイントだろうと思うし、そういう意
味では、「真下‥」を観ている間、実は2〜3
箇所、台本の不備によるストーリー進行の強引
さで、危うく「素」に戻りかけることがあった
が、結果的にはなんとか持ち堪えて最期まで物
語の世界に浸り続ける事が出来たのはなにより
だった。
見せ場に使われているCGのチープさについて
は、敢えて目を瞑り、見て見ぬふりをしてあげ
ようと思う。
これはCGで見せる映画ではなく、ストーリー
で引っ張る映画なのであり、だからストーリー
さえしっかりしていれば、CGが多少チープで
あっても全然無問題なのである。
内容についてはネタバレをしてはいけないので
触れないでおこおうと思う。
俺がこれを観たのは夏。ストーリーの設定は冬
で、全然季節外れだ。そんな風に季節外れな時
期に観てもこれだけ楽しめたのだから、これを
実際にクリスマスシーズンにカップルで観たり
すれば、本当に極上のひとときを過ごせるだろ
うと思う。

 

 

NANA

ILMといえば、洋画が好きな人間なら誰もが1
度は耳にした事がある、泣く子も黙るSFXの超
名門スタジオだが、そのお偉いさんに日本人の
マスコミがインタビューしたのをかつてどこか
で俺は見た覚えがある。
いつか日本映画でもILMのSFXを見る事が出来る
のでしょうか?というそのインタビュアーの身
のほど知らずな質問に対して、そのお偉いさん
は、鈍感な俺が見てもはっきりそうだと分かる
ほどの深い憐憫の情を湛えたまなざしでインタ
ビュアーを見つめ返した後、No。それはないだ
ろう。日本映画にそれだけのコストをかけられ
る余裕があるとは思えない。ただ、例えば、PV
のようなミュージック・クリップであれば、日
本のスタッフと共同作業する事は可能かも知れ
ない。と、はっきりと答えたものだ。
これは日本映画の本質をとてもストレートに突
いた回答だと思う。SFXでは日本は米国には到
底敵わない、という事なのである。
だが同時にこの回答からは、PVの分野であれば
日本は米国と対等に渡り合える、という可能性
も見出す事が出来ると思う。
だったら、日本映画は特撮に血道をあげるので
はなく、J-POPのPV映像を映画に取り込めばい
い、という事になる。
NANAは、それが成功した好例だと思う。
音楽と演奏やコンサートシーンにきっちりとお
金をかけて、少女漫画のストーリー展開を持ち
込んだ時点で、なるほどNANAの成功は確約され
ていたのかも知れない。
そういうツボをしっかりと押さえておけば、例
え中島美嘉が二十歳では無理があり、それより
なにより大根だったとしても(笑)、映画はこ
んなに面白く、素敵に出来上がるのである。
聞けばこの映画、続編が作られるらしい。
今からその続編が待ち遠しくてならない。

 

 

Mr.&Mrs.スミス

メイド・イン・ハリウッドのアミューズメント
パークテイスト満載のお馬鹿映画の決定打だ。
こういう映画に小難しい理屈を述べたり、枝葉
末節にこだわってあげ足を取ったりするのは
「野暮」というものであり、観る側としては、
ただひたすらリラックスして楽しんで笑ってハ
ラハラドキドキしていれば、それで万事OKな
のである。
バカボンのパパではないが「これでいいのだ」
なのだ(笑)。
暇つぶしには最強・最適だが、それ以上でも以
下でもないというお気楽映画のお手本のような
作品。
ちなみに俺はただひたすらアンジーだけを愛で
て楽しんでいた(笑)。
昨今のハリウッドは、過去の名作のリメイクや
シリーズものの続投など、興行成績に安直に結
びつくような、ある意味情けない企画で作られ
た映画が目白押しだが、そんな中にあってオリ
ジナルな内容で勝負した点については、この映
画を素直に評価したいと思う。
こういう作り手の真摯な姿勢が観る者に共感を
抱かせるのではないだろうか?

 

 

17歳のカルテ

スザンナ・ケイセンの原作に惚れ込んだウィノ
ナ・ライダーが製作と主演を買って出た意欲作
で、クレイモアという精神療養施設の内部の人
間模様を描いた映画だが、正直な所、ずいぶん
昔からあるような、例えば「女刑務所」物とそ
れほど大差がない内容に感じられた。
もちろんウィノナ・ライダーをはじめ、ウーピ
ー・ゴールドバーグやバネッサ・レッドグレイ
ヴ等芸達者が顔を揃えているだけあって、陳腐
なだけには終わらず、それなりの感動も残るし
施設の患者が雪の中を街に出る場面は「ハリー
・ポッターとアズカバンの囚人」をちょっと思
い出したりもした。
だが、やはり何といってもこの映画で本当に出
色なのは、事実この映画での演技でオスカーの
助演女優賞を獲ってしまったアンジェリーナ・
ジョリーだろう。
ウィノナ・ライダーがこの原作に惚れ込んだの
も、精神を病む若者の持つニューロティックさ
に役者魂がヴィヴィットに反応したからなのだ
ろうと思うが、そういう意味でのニューロティ
ックさが全開なのがこの映画で札つきの問題児
を演じるアンジェリーナ・ジョリーだ。
この若さにして、既にここまでの「鉄火肌の姉
御」ぶりを見せる彼女は見事のひとこと。
このアンジェリーナ・ジョリーの存在感の前に
は、ウィノナ・ライダーの思惑などどこかに消
し飛ばされてしまった感じだ。
う〜ん、アンジェリーナ・ジョリー。
まさに栴檀は双葉より芳し、といった所か。

 

 

 

 

 

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