【Oh, happy day】
ピッ、と電源を入れるとipodから音楽が流れ出す。
曲は『君の瞳に恋してる(can't take my eyes off of you)』だ。
彼は特に洋楽に傾倒しているわけではないが、この曲は気に入っていた。
『You're just too good to be true
Can't take my eyes off of you
You'd be like heaven to touch
I wanna hold you so much』
イヤホンから流れる軽快なリズムに聴きいる男。
ときおり眼を閉じてノリながら、
絆創膏を貼った腕が重い教科書の入ったカバンを揺らす。
と、唐突に前を歩いていた人の背中にぶつかり、慌てて立ち止まった。
歩行者信号が赤だったのだ。
彼は振り返る相手に頭を下げるが、すぐ笑顔に戻る。
ぼうっと待つ間、周囲をなんとなく見渡す。
音楽を聴きながら見る風景はいつも音楽の色に染まる。
いまは、そう、例えるならオレンジに近いピンク。
とにかく嬉しく楽しい歌の色。自然と頬がゆるむ。
『At long last love has arrived
And I thank God I'm alive
You're just too good to be true
I can't take my eyes off of you』
ふと思い出したように前を見ると歩行者信号はとっくに青だった。
完全に出遅れ、慌てて歩きだすと、ちかちかとまた赤に戻ろうとする。
いらだたしそうなクラクションに急かされて駆け出したら、
道路の段差につまづいて危うく転びそうになった。
抜けているというかどんくさいというか、
とにかくあまり器用なほうではない男だった。
それでも常にニコニコと笑顔を浮かべているのは、
よほどこの曲に惚れ込んでいるのか、それとも私生活が幸せなのか。
しばらく歩くと、足にグニッという変な感触。どうやらガムを踏んだらしい。
靴底にこびりついたガムをティッシュでつまみとる。
周囲を見渡すがゴミ箱が見当たらないので仕方なくポケットにそれを突っ込んだ。
男は苦い顔でため息をつくが、またすぐ笑いが戻ってくる。
『Pardon the way that I stare
There's nothing else to compare
The sight of you leaves me weak
There are no words left to speak』
長い坂を上りきりやっと大学に着いた彼はしかし、
何気なくのぞき込んだ掲示板の前でうめくような悲鳴をあげた。
えー……マジかよ。夏休みの集中講義の日程を書いた貼り紙は、
彼の授業が延期になったと伝えている。
暑い中、無駄になってしまった重いカバンを持つ腕がさらにだるく感じられた。
なんだよ。冗談じゃねえよまったく。
呟きながらも踵をかえし、携帯電話を取り出す。
パクンと音を立てて開けば、現在の時刻と愛するアリスの待ち受け画面。
眉間によった皺がすうっと消えていく。
「おー。おはよ」
「あ、おはよう」
声に振り向けば、友人が二人手を振っていた。
すぐに歩み寄ってくる彼らに挨拶をかえす。
「あ、何それ。どうしたの」
無意識に触ってしまう腕の絆創膏を女友達が心配そうに見た。
「これはアリスにひっかかれた」
「大丈夫? いたそー」
「ちょっと。でもへーき。
それより今日さあ、ドイツ言語文化概論なかったんだな!
俺知らなくて学校来ちゃったよ」
「今日知ったの? わーバッカだこいつ」
「川合先生最後の授業でちゃんと言ってたのに」
「言ったっけ?」
「そんでその重そうなカバン下げて無駄に学校来たわけだ」
「うん」
「ハハハ。暑い中ごくろうさまー」
男友達のほうはいかにも他人ごとらしくケラケラと笑っている。
「あ、俺ら学食いくけど来る? どうせ暇なんでしょ」
「んー……でも俺、帰るわ。猫が待ってるしさ」
「ふうん。じゃあな」
「バイバーイ」
二人の友達と別れて来た道を戻っていく男は、
面倒だろうにも関わらずやはりニコニコとしていた。
「……なあ、あいつずいぶん機嫌よくね? なんか良いことあったのかな」
「あーなんか最近猫飼いはじめたらしいよ。
ほら、さっき『アリスにひっかかれた』って言ってたじゃん」
「あ、アリスって猫なのか。……あれっ、一人暮らしだよな? アパートじゃねえの?」
「だから隠れて飼ってるってさ」
「マジかー」
「なんかもう可愛くて仕方ないみたいよ」
「そうなんだ。俺も実家で犬飼ってたなー」
「いいね。私ペット飼ったことないよ。名前なんていうの? ……」
『But if you feel like I feel
Please let me know that it's real
You're just too good to be true
Can't take my eyes off of you』
嬉しそうにいそいそと鍵を開け、中に声をかける。
「ただいまー。アリス?
今日学校なかったみたいなんだよ、授業延期になってたの知らなくてさ。
いやあバカやっちゃった」
靴を脱いでカバンをどすんと置き、奥の部屋のドアを開ける。
部屋はアリスのために冷房をかけっぱなしなので涼しかった。
カリカリと音がするクローゼットの前に立つとつい笑みが漏れてしまう。
やんちゃだがかわいい子猫。そして、クローゼットを開けた。
「フーッ……」
まずギラリと光って見えるのは黒瞳がちの大きな眼。
赤い首輪につけられた鈴がちりちりと鳴る。
空色のワンピースと白いシャツ。
頭の上のほうで二つに結った髪はピンと立てた耳のよう。
もうひっかかないよう手にはグローブ状にタオルを巻いて縛ってある。
両足首は丁寧に片方ずつタオルの上から革紐を巻かれ、
紐はクローゼットの外へと伸びてそれぞれベッドの脚に結びつけてある。
「ただいま。『ありす』」
「ウゥゥ……!」
口を塞ぐタオルにぎりぎり歯を立てながら、
少女は射殺さんばかりに男をにらみつける。
恍惚とした男の表情とはまったく対照的に。
「やっぱりそこらの雌猫とは違うな。アリスが一番可愛いよ」
君がいるだけで、こんなに幸せなんだ、人生は。
暴れる少女を抱きしめながら男はそう呟いた。
『I love you, baby ……』
Fin_■
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