右と左を間違えたとき、流石に危機感を覚えた。たぶん今の私は、自分が思うよりずっと疲れている。
けれどまだ仕事は残っている。とある内部機密文書がハッキングされて流出したことにより、世界中がパニックに陥ったのだ。企業が脱税していたとか、収めるべき税金を隠していたとか、そんな生易しいものじゃない。
租税や税金が課せられない、あるいは限りなく低い国や地域であるタックス・ヘイブンに着目した巨万の富を持つ企業や個人が、書類上だけで実態のないペーパーカンパニーを立ち上げ、そこへの支出という形で資金をプールしていた。その情報が流出したというのだから、正当に税を収めていた国民は怒りが頂点に達したことだろう。
要するに、税金を収めたくない企業や個人が利用していた偽の会社や団体の情報が表に出されたということだ。個人の中には大統領や首相、著名人がたんまりと含まれており、退任を促すデモが行われている国もある。
文書が開示されてから七十二時間、絶え間なく続報を待ち各地で暴落し続ける株価に頭を掻き毟りながら、おおごとにならないようにと根回しをしていた。今更隠蔽したところで無かったことに出来るはずもないが、得意先からの依頼とあっては仕方ない。数字と文字で溢れる脳内はもう悲鳴を上げている。けれど手を止めてしまったら一瞬の内に均衡が崩れるために丸二日間はデスクトップパソコンから離れることが出来なかった。
三日目になって根回しが効いてきたらしく、少しずつではあるが回復の兆しが見えてきた。文書について報道する国もあれば、情報を規制して検索することすら許されない国もあり、海外の問題という遠い出来事として片付ける国もあった。
寝ぼけ眼をこすりながら常備してある栄養ドリンクを煽った。全くもってやるせない。情報屋は情報を探るのが仕事だというのに、改ざんして隠蔽しろだなんて。自嘲的な笑みが漏れた。彼は、どうだろうか。思考の偏った宗教団体というのはこういう亀裂にひどく敏感で、何処からでも情報を得てくる。そして隙があれば楯突くだろう。恰好の獲物を目の前にして活動をしない理由がない。日本を守ることを仕事にしている彼も今頃、その処理に追われているに違いない。そう思ったら、少しだけ気が晴れたなんて。嫌な人間だ。
一時的に、ではあるが株価が安定してきた。作業も佳境に入っている。何よりも身体が活動限界を迎えていた。先程から脳内で警報が鳴りっぱなしなのだ、このままだと死に至ると。
椅子から立ち上がることすらままならず、物に掴まりながら自室を出てリビング、キッチン、冷蔵庫へと向かう。中身を開けると冷気が漂ってきたが食品は粗方なくなっていた。残っているものといえば消費期限の切れた生卵、未開封の苺ジャム、いつ買ったとも知れない魚肉ソーセージが二本だけだった。とりあえずソーセージを頬張りながら身支度を整える。目の下の隈は仕方あるまい。化粧する手間すら惜しい。とにかく糖分を補給したかった。上下セットのスウェットの上にジャケットを羽織りながら二本目のソーセージを消費する。口だけを動かしながら食べる姿は彼が見たらお小言の一つや二つくらい飛んで来そうだが、ここには私しかいない。咎める人なんていやしないのだ。
そしてソーセージを包んでいたビニールをゴミ箱へ放り捨てながら玄関へと向かう。そして扉を開けるとまず飛び込んできたのは地面に叩きつけるような雨音だった。決して新築とは言い難い部屋の中にいて気づかなかったということは、聴覚も駄目になっていたのか。ほんの数秒止まった足は、けれど未だに頭を叩き続ける危険信号に逆らえず歩みを進める。傘を持って雨粒に耐えるほどの体力を持ち合わせていなかったから、濡れたって構わなかった。どうせコンビニまでの道のりだ。誰も何も言ってこないだろう。
「……さん?」
呼ばれて振り返った。黒いコウモリ傘を片手にこちらへ小走りで駆け寄ってくる男性があった。確か、私の部屋の直下に住まう人で、名前は思い出せない。時々見かけたら挨拶をする程度の顔見知りだ。その彼が、私を自分の傘に入れている。いつもより回転の遅い頭は状況を整理できないでいた。
「どうしたんですか、こんな大雨の中」
「……ええ、ちょっとコンビニまで行こうと思って」
「なら傘をささないと濡れてしまいますよ。この傘お貸しします。あ、いっそお送りしましょうか」
「え、あの、その……」
怒涛の言葉の嵐に、脳が追いつかない。こんなナンパじみた台詞、いつもなら軽く躱してあしらうというのに。今日は上手く回転してくれなくて言葉が出てきてくれない。そうこうしている間に空いている方の手を取られて歩き出してしまう。抵抗する力すら残されていない私は引きずられるままで、笑顔を絶やさない隣の男性に恐怖心を抱いた。こわい。だれか。お願い、たすけて。こんなことなら宅配ピザでも注文するんだったと後悔しても時間を戻すことなどできやしない。この人はきっとコンビニなど行くつもりはない。私は何処に連れて行かれるのだろう。たすけて、だれか。
唇を噛み締めて縋るように祈っていると、後ろから強い光が照らされた。その光の方を振り向くと腰ほどの位置から車のヘッドライトであろうことは予想できた。アパートの住人か近所の人だろうか。逆光で車も、乗っている人物も判別できない。光に狼狽えたように見えた男性は「ほら、早く行きましょう」と腕を引いて止まった足を動かすように催促してくる。たすけて、と車の中の人物に向けて叫びたかった。けれど恐怖に喉が締め付けられたせいか、掠れた声すら出ない。ライトが消されていよいよ恐怖が現実になろうかとした時のことだった。
「おい、何してるんだ!」
「っ、クソッ……」
張り上げられた声に聞き覚えがあった。助けて欲しいだれかの中で最初に思い浮かべた人物で、感極まって涙が溢れてきた。恐慌から解放されたからだ。私の腕を強く引いて自身の胸に抱きとめる一連の流れが鮮やかで、私も男性も呆気に取られた。息を吸い込むと雨に混じって確かに彼の匂いがして、ひどく落ち着いた。胸元のシャツをぎゅっと握り込むとその拳を彼の手が包んでくれた。あたたかな温度に、また涙が溢れた。
「……俺の彼女に、何かご用でも?」
「は? 彼女? ……いえ、この雨の中での外出はいかがなものかと思って声を掛けたのですが、杞憂でしたね。失礼しました」
慌てて取り繕うように笑った男性はそのまま自分の部屋へと入って行った。それを見送ってから彼は私を引き剥がしてまじまじと顔を見つめた。やっぱり、茶髪に褐色の肌、そして青色の双眸を持つ零だった。「何かされたか?」と短く聞かれ「ううん、まだ何も」と答えながら首を振ると「詳しいことは部屋の中で聞く」と強ばった顔で私の背中を押して促してくる。待って、それよりコンビニと口ごもったが力で押されてしまえば勝目はなかった。
引きずるように私の部屋まで来た彼はドアノブを捻り、鍵が掛かっていないことに目を丸くして驚いた。私も驚いた。鍵を掛けたつもりで、実は掛けていなかった。そういえば財布も持っていない。一体私は何をしに雨に濡れたのか、分からなくなってしまった。
部屋の中に入った彼は靴を脱ぐ前に平手で私を引っぱたいた。パチンと小気味よい音が静寂の部屋に響いた。私は玄関に倒れ込んだ。彼に叩かれたショックよりも驚きの方が勝った。ぶたれた頬に触れると、じんじんと痛んだ。きっと真っ赤に腫れ上がっていることだろう。彼を見上げると、今にも泣きそうに顔が歪んでいた。少し昔の、泣き腫らして帰ってきた彼を思い出した。
「……鍵もかけず、傘も持たず、挙句男に連れ去られそうになった。何か言い訳は?」
「零がほったらかしにするから」
「……他には?」
普段のように軽口を言ったつもりだった。けれど冷たい眼差しに、静かな怒気を含む声に、もう下手なことは言えないと危機を悟った。回らない頭をフル稼働して、何とか言葉を絞り出す。
「疲れてたのよ。それで、言葉が出てこなくて」
「どれだけ心配して息が詰まりそうになったか、分かるか?」
「別に、心配してなんて頼んでな――」
瞬間、彼が距離を詰めて私の胸倉を掴んだ。けれどすぐに手は離され、私の胸に彼の頭が押し付けられる。「勝手に大丈夫だと思ってた。でも、力を行使されれば敵わない。そんな簡単なことすら、気付けなかった」嗚咽を孕んだ声に、唇を噛み締めて涙が溢れるのを堪えた。今の私にその資格はない。
「今までは、何ともなかったの。たまに挨拶をする程度で、私は名字すら知らなかったくらいで」
「でも、向こうは私の名字を知ってた。そのことに気付かなかった。突発的なのか私に好意があったのかは分からないけど、でも、一つのところに長く留まりすぎたのかもしれないわね。早いとこ引っ越すべきだった」
彼は一言も口を挟むことはなかった。そうして訪れた沈黙に耐えられなくなりおざなりに口を開くと同時に彼が「分かってたなら、どうしてここを引き払わなかった? 今更未練なんて……」と言葉尻を濁して言った。
「それは、零が」
「は?」
「零が、ここに来るから。引っ越したら、もう私に会いに来てくれないんじゃないかと思って」
「……馬鹿だな。そんなの、がむしゃらになって探すに決まってるだろ。ちょうどが俺の正体を暴いたように」
優しさを孕んだ声に、背中に回される腕に、涙が溢れた。そして安心したのか、腹の虫が声を上げた。腹を押さえても生理現象はおさまることを知らない。熱くなる頬が居心地悪くて仕方ない。恐る恐る顔を上げると想像通り、笑い声を堪えるように口角を釣り上げる彼と目が合った。寝不足も相まって不機嫌になった私は頬を膨らませるが、口角の下がらない彼には効果が今ひとつのようだった。
「そういえば、何でこんな雨の中外出なんてしようと思ったんだ?」
「それは、お腹が減って、甘いものが食べたくて。ここのところまともに食べてなかったから」
「……まさか、例の文書か?」
「ご明察。三日間栄養ドリンクだけで耐え忍んでいたわ」
「ば、っかだな。冷蔵庫の中は?」
「さっき見たけど腐った卵とジャムと魚肉ソーセージだけ。とりあえず、ソーセージは食べたんだけど」
「じゃあ、ちょっとコンビニ行って何か買ってくるから待ってろ」
立ち上がり今にも部屋を出て行きそうな背中に飛びついた。恐怖がまだ私の中に残留していた。一人にしないで欲しかった。身体が震えて、体内の温度が急激に冷えた気がした。その癖頭だけは熱くて痛みを主張してくる。厄介だ。「ま、って。行かないで。一人に、しないで」そんな女々しい台詞が私から吐き出されるなんて、思ってもみなかった。だけど恥ずかしさはなかった。あるのは取り残されることの恐怖心だけだった。「じゃあ、一緒に行くか」宥めるように背中を行き来する掌が私の心を緩和していく。「うん、お願い」と彼の肩口で祈ると頭を撫でられた。今更になって眠気が襲ってきた。
その後濡れた服を脱いで身体を拭いた私たちはラフな恰好に着替え、私の部屋に唯一置いてあった、くたびれたビニール傘を持って玄関を出た。今度はちゃんと鍵は閉めて。助手席までエスコートされて座る。先程の出来事を思い出して、少しだけ胸が苦しくなった。運転席に乗り込んだ彼は小刻みに震える私を見て悟ったのか、投げ出された右手に一回り大きい左手を重ねてくれた。「ごめんね」と眉尻を下げて言うと「今日は随分としおらしいんだな」なんてニヒルに笑われた。きっと、普段の私を取り戻せるように配慮してくれているのだろう。全く。本当に彼は私にはもったいないくらい、いい男だ。
コンビニに着くまでの僅かな間、私たちはぽつりぽつりと自分たちの近況を話した。そしてやっぱり彼もトラブル回避の処理に追われていたこと、やっと目処がたったこと、アパートの近くまで来たのはいいけれど訪ねていいか迷っていたところ揉め事が目に付き、急いでアパート前まで車を動かしたことを話してくれた。「タイミングが良すぎて惚れ直すかと思った」なんて冗談を告げれば「言わなきゃ良かったな」と舌打ちを返される。思わずふふ、と笑うと「やっといつもの君に戻った」なんて言われるから、気を遣わせてしまったなと申し訳なく思った。エンジンを切る直前に「零、好きよ」と溢れそうな気持ちを零せば「ばか、知ってるよ」と頬を赤く染めた。どうしよう、さっきから鼓動がドクドクと波打って苦しいなんて言えない。
「降りるか?」と尋ねられ「ねえ。今更腰が抜けた、なんて言ったら笑う?」と半笑いで返すと「あんなことがあってもう立ち直ったって言われる方が笑うよ。適当に何か買ってくる。リクエストは?」なんて尋ねられて羽織っていたジャンバーを私の膝にかけるのだから堪らない。「甘いもの、いっぱい食べたい」と目を輝かせて伝えると「了解。俺が来るまで寝てろ」なんて言葉と共に一瞬だけ唇に触れた。私の頬が真っ赤になると、してやったりと満足げに笑った。ずるい。
それから私は彼の言葉通り、彼のジャンバーを身体にかけて目を閉じた。今は、彼以外の男性を見るだけで震えが止まらない。そのことに彼は気づいていた。さっきから私は彼に絆されてばかりだ。彼だって私のアパートを訪ねるまでは仕事を片付けていて疲れが溜まっているはずなのに、すっかり怯えてぐずぐずになった私を助けてくれる。
愛されていると、自惚れていいのだろうか。好きと零せば顔を赤らめる彼も、私を好きでいてくれていると信じても許されるだろうか。いや、そんなのはこれまでの行動を省みれば明らかなのだ。けれど揶揄っているわけでも女友達としてでもなく、恋人として私が好きだと言葉が欲しいと欲張ってしまう。
微睡みに意識を手放しそうになっていると、肩を叩かれ、揺さぶられた。薄く目を開けると微笑む彼の顔。「悪い、本当に寝てたか?」と垂れ目が陰り「ううん、少しウトウトしてただけだから」と安心させるように笑って見せると、彼はビニールの袋を私に預けながら胸を撫で下ろした。そしてゆっくりと車を発進させた。
「何が好きか分からなかったからチョコレートとかクッキーとか餡子とか一通り買ったんだが、好きなものあるか?」
「うん。大体好きなものだから吃驚してるくらいよ」
「それなら良かった。……あ、そうだ。最初はスポーツドリンクかウイダーインゼリーにしとけよ。恐らく塩分が足りてないから」
その言葉に思わず笑ってしまい、彼に睨まれた。「何笑ってんだよ」なんてあからさまに機嫌が悪くなる彼に「零って、私よりずっと私のこと解ってるんだなって思って」と答えると「当たり前だろ。好きな奴の様子は、いつだって気になる」なんて。私は両頬を両手で覆った。あつい。「ずるいなあ、もう。本心じゃなかったら怒るよ」と投げかけると「本心に決まってるだろ。ってか今キスしたくてたまんない」とイライラしたように返される。「次信号止まったら、してもいいよ」と可愛げのない返事をしてスポーツドリンクを煽る。恐怖心も全て塗り替えてしまうのだから、彼という存在は本当にずるい。袋いっぱいのお菓子を煮詰めたものよりも甘く、ドロドロに溶かしてさっきの恐怖をぜんぶ忘れさせてよ、ねえ。
2016.11.23